自分の没後に「どのような専門家であった」と言われたいか?

終活とは、人の心の中で生き続ける決意と覚悟

この歳になると、親の世代が終活やエンディングノートが。。と言ってきます。

でも、終活とは遺族にお願いする没後のTodoをまとめることではなく、これまでの人生を総括するとともに、「周囲の人の心の中で、自分はどう生き続けたいのか」決意を固め、残された時間の中で「周りの人に対して態度姿勢を通じて決意を示していく」覚悟。だと思います。

おカネや、地位、物質は残らないのであり、没後に遺せるものは、一人ひとりの心に「あの人がいてくれたから」と名を遺すことしかできないのではないでしょうか?

決断の積み重ねが人生ならば、日々の決断は自分に正直にしているか?

また、今際の際に「思い通りにならなかった人生だ」「こんなはずはなかった」と嘆く人もいると聞きます。でも、人生とは「日々の小さな決断の積み重ね」であり、小さな決断は誰かに強制されたものではなく、自分の思うままに決めているのです。なので、「思うままに決めた小さな決断」の積み重ねである人生は、自分の「思うままの人生」なのです。

思うままの人生を歩んでいる以上、この瞬間を大切にしなければならないですし、たとえ、この瞬間に自分が滅しても、誰かの心の中の希望として生き続けさせていたけるように、いまこの瞬間も誰かの希望となれるような態度姿勢を示し続けていくことが、生きる。ということだと思います。

自分が没したあとに、どのような専門家と言われたいか?

 専門家としての自分自身に向き合ってみてください。自分が専門家として引退した後はもちろん、自分が没した後に、自社のスタッフはもちろん、お客様、同業の仲間から、どういった専門家として呼ばれたいか具体的に言えるようになっていますか? 「何かの領域での第一人者であった。」「常に寄り添ってくれて、辛いときの支えになってくれた」「カネの亡者であった」何でも構いません。

自分が「ありたい姿」と、「周りの人の心に住み始めている自分」は一致しているのでしょうか?もし、一致していないのであれば、それは自分自身の専門家としての姿勢が確立していないか、普段の言動が不一致のいずれかではないでしょうか?

もちろん、「社労士の試験には合格したが、登録するか迷っている」という方にも問いかけたいと思います。登録するかしないか迷うと言うこと自体を否定しません。しかし、「毎日の自分の想いのままの決断の積み重ね」が、「想いのままだった自分の人生」なので、いまのを保留することや、迷い続けることは、あなたにとって、願っている人生の終着点につながっているのか考えてみてはいかがでしょうか?

投稿者プロフィール

今井洋一
今井洋一社会保険労務士法人アイプラス代表社員
アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア株式会社)、IBMビジネスコンサルティングサービス株式会社等を経て、社会保険労務士法人アイプラスを創業。人事制度の構築から、労働問題の「具体的な対応策」を知りたい、経営者・人事担当者様向けの労働相談まで対応している。特定社会保険労務士

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